前回の内容は、Lルートは生存という最初の段階をなんでもいいから確保したい、そのためなら多少の犠牲はやむを得ないこと、そして最終的に「理想」を現実のものにできればいいという方向性だった。そしてCルートはそうした方向性ではなく、生存云々以前に理想を持って来ていること。
その結果としてCルートは最初から最後まで徹頭徹尾潔白でなくてはならないという一貫性と、そうして失われた現実感覚が浮き彫りにされていた。Lルートは「結果良ければすべて良し」ばりに最初は虐殺してそれを相手になすり付けると言う卑怯な手段を選ぶ、だがそうして生存を確保してその後Cルートにも負けず劣らずの素晴らしい世界を実現させてみせようとする。そうすたスタンスの違いを浮き彫りにしてきた。
そしてそれを踏まえて今回指摘していきたい内容は、上図の通りになる。
(書いてないけど左がLで右がCになる)
Lルートでは虐殺をする。実際はそうなんだがその責をガルガスタンになすりつけることによって自らの潔白を主張する。悪いのはガルガスタンであり、そしてウォルスタは正義を得る。
ところが、その真相はヴァイスが各地に流布することになる。ウォルスタの側では憤りのため、そして黙っていても抹殺されるだけだからと志願者が増加し士気は高まる。ところがガルガスタン側では真相を知ることで穏健派が動くことがなくなる。その結果、ロンウェーの思惑は外れて味方が一気に増加するような事態は起きない。
外見はいかにも無実や潔白を装っていても、真相はヴァイスが人々に伝えていく。化けの皮が少しずつ剥がされていくことになる。
そして二章になる。ウォルスタ解放軍は壊滅の危機にあり、レオナール主導のもとロンウェー公爵の暗殺が計画される。それにデニムも参加し、ロンウェー殺害に成功する。その後レオナールにすべての罪を着せて殺害し、ネオ・ウォルスタ同盟とも手を組むことが可能になる。しかしヴァイスの方では、バルマムッサの真相は知っているのである。
また、デニムの方でもバルマムッサの責やレオナールを殺害し、全ての罪を着せて殺害したこと、やってきたことの汚さの積み重ねによって心の中で、また実際にも暗雲が広がっているといえるのである。悪いのはガルガスタンだとか、悪いのはレオナールだとか言ってなすりつけていれば自分は「純白」を保つことができる。やってきた行いのあくどさを全て他者になすりつけていれば、自分は清くいられる。そして三章でも正義を口にし、ガルガスタンと決闘する。
ここでザエボスにはっきりと指摘される。
「それは詭弁だ!このご都合主義者め!」
「民を欺き……仲間を欺き……そして自分をも欺くのだな……」
戦闘後、デニムは呟く。「僕は偽善者なんかじゃない……」
それを敢えて口にするということは、そうしてわざわざ否定しなければならないほどザエボスのセリフが真実をえぐっているからであり、そしていくら言っても否定できるようなものでもないから口にせずにはいられないことをも表していると言える。いくらリクツを並べ、正義を語ったところでデニムがやってきたことの後ろ暗さと後ろめたさはそう簡単に払拭できるようなものではない。いくら正義を並べても虐殺と暗殺、主君殺しが消えるわけではない。むしろ時間が経てば経つだけまるで雪だるまのように罪悪感は膨れ上がっていく。その膨れ上がった暗部を誰かにまた見透かされるかも知れない、バレてしまうかも知れない。本当はそうしてリクツを並べて忘れてしまいたいが、しかしそれを忘れられないことは自分が一番よく分かっている。三章の最後に明らかにされるのはデニムの心の、そうした葛藤と苛立ち、不安感と罪悪感の高まりではないかと思える。
一方のCルート(右図)では、虐殺に反対したが結果その首謀者に祭り上げられ懸賞金をかけられ逃げ回ることになる。本当は潔白である
、しかし自分たち以外の誰もがそれを信じていない。ウォルスタ側では、ウォルスタを裏切った裏切り者であり、ガルガスタン側では虐殺を自分たちになすりつけたヤツだということになっている。誰一人として味方してくれる者はいない。真実をいくら知っていても、その真実に意味がない状況。
しかしデニムは理想を貫き通す。例え自分たちが生存の危機であっても、理想を棄てたりはしない。バイアンたちが困っているのであれば手助けする。生存や命の危機以上に理想を、即ち純白であり潔白である境地を主張する。そういう理屈を積み上げている以上、レオナールからの誘いを断るのは当然のことである。現実に危機になれば裏切り者としてきたデニムの力を借りてでもこの場をしのぎたい。生存の危機になればどんな手を使ってでもその場をしのぎたい。そうした理想もクソもないようなレオナールの姿勢をデニムは非難する。デニムはどんな
状況であろうと、困っている人を助ける、理想を棄てない。そうして潔白な状況、理想的な状況を一歩ずつ押し広げてようとする。
その結果生み出されるのは、三章のデニムである。
「困っている人の助けになりたい」という理想を掲げるデニムは、そうしてガルガスタンの残党とウォルスタ解放軍が潰しあいしてくれそうな、普通なら「戦力減退の好機」としか見えないだろう状況を徹底的に無視する。ガルガスタンの残党が蜂起して人々が困っているから助けたいという動機で動く。
恐らくこの動機を「美しい」と見るか「短絡的で愚かしい」と見るかといえばほぼ誰もが後者だと言うに違いない。ガルガスタンの残党を一掃した後は間違いなくウォルスタ解放軍との戦いになる。事実そうなる。連戦で自分たちが疲弊してあるいは滅び去るかも知れないといったことは、デニムの頭の中にない。困っている人々を救うためなら自分たちが滅んでもいいと言うに等しいこの行動は、ひとまず「あり得ない」と言えるだろう。
しかしそうせざるを得ない状況にいる、つまり一章から今まで理想を徹底的に貫き通してきたデニムにとっては、「広がる理想の圧力」とでも呼ぶべき圧力がある。今まで貫き通してきた理想をここで歪めたり汚したりするわけにはいかない。例え1ミリであっても汚すことはデニムのその内心の圧力が許さないのである。
そしてザエボスに会い、デニムは言われる。
「そう言って何人殺してきた?」それによってデニムのスタンスは大きく崩れる。今まであった理想を貫くスタンスはみんなが唱える
ような「お題目のひとつ」にしか過ぎなくなり、結局権力を取ったらデニムも公爵や枢機卿と同じになると指摘される。理想を貫くという姿勢そのものが一レッテルに過ぎなくなった。「首がすげ替わるだけ」になったのである。
既成の概念にそうした凄まじい衝撃があった、いかにも破壊され崩壊の危機という状況になった。それでもデニムが投げ出したり崩壊したりしなかったのは、恐らく人々の直接的な支援があったからではないかと考える。理想を貫くといういかにも頭でっかちになりそうなものだが、デニムはそれによって助けられた、自分が助けた人々を直接見て、聞いて話すことが多かったに違いない。そうした具体性が強烈にデニムの理想や行動を支えていたのではないかと考える。
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