タクティクスオウガ㉒ バルマムッサの論理とニバスの論理




 ここで考えていきたいのは、まずバルマムッサの虐殺を肯定する論理というのはニバスの行いを肯定する論理とかなり近いものではないかということだ。後はそこからの発展についていろいろ書いていくことにする。


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 ①5000人の同胞を殺害する。この収容所を全滅させることは、粛清をたびたび実施しているガルガスタンの行いと違和感がない。またウォルスタとガルガスタンの民族対立を踏まえれば、自民族を殺害しているのに、まして他民族の殺害には違和感がない。殺害はこうした状況を踏まえている。
 ②その行いをガルガスタンの仕業として発表する。これによって戦争の大義名分と正義を得ることができる。
 ③また、この大規模な収容所が滅ぼされたとあればよその収容所が蜂起せざるを得ない状況になる。


 こうしたロンウェーの狙いが事前に明かされる。
 デニムが虐殺に反対した場合、ヴァイスはこの理屈を全面的に肯定する。
 「同胞のためになるなら喜んで死ぬさ」
 「オレが許す、歴史が許してくれる。わずかな犠牲が同胞の未来を築くんだ」

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 このヴァイスの理屈というのはこの物語を、虐殺からニバスまでを読み解く上での一種のヒントになっているように思われるわけである。


 ・死んだ者を生者のために最大限活用すること、それによって生者に喜んでもらえたら、死んだ者も喜ぶということ。
 ・これをさらに抽象化するとしたら、本人の意思や思想とは違う文脈、いやいっそ無視した文脈に人を配置することも肯定されるといえる。
 ・人をそうした文脈に配置したとしても、ある程度の効果が期待され、最大限に効果が狙え、活用できるならばそれは許容される。
 これというのはまさにニバスの文脈そのものではないかと思えるわけである。

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 ニバスは死者を生き返らせる。そして死者を実験台としても、戦力としても最大限に活用している。Nルートでギルダスはそうした文脈に配置されることになる。ゼノビア勢の一員として、ウォルスタ解放軍でも活躍してきた人物が死ぬ。死ぬだけなら効果としては何もならない、まあウォルスタ側の戦力が減ったとはいえるだろうが、それをアンデッドとして復活させる。その実験台として扱う。失敗しても戦力としてガルガスタン側、というよりニバス側で働いてくれる。それは言ってみればウォルスタの戦力は減るし、ガルガスタンの戦力は増える。さらに実験は進み、その役に立てることができるともいえる。それは「人」というものからある意味最大限の「効果を引き出す」ことに他ならないものではないのか。本人の意思とは関係ない、思想や生き方とも関係ない、そうしたものとは違う効果という文脈に人を配置し、最大限に効果を引き出そう。100%の効果を引きだそうとする思惑がここにはある。そうした操作があると言える。
 そうした操作、文脈の配置を変え、効果というものを引き出そうとする意図というのは虐殺の根底にもあるものだと思われたということである。



 こうした「配置を変える」ことと、その「操作」というのは他にも見受けられる。
 例えばLルートにおいてヴァレリア解放戦線はオズらの手によって壊滅させられることになる。リーダーのセリエは捕まって凌辱させられ、最終的に殺害される。この組織が戦力がないなりにいろいろな構想を考えていたこと、過激派であり目的のために手段を選ばないこと、つまり市民殺害も許容していたこと。そうしたことを踏まえれば、あれだけやってきたらこういう殺害をされても文句が言えないよなあという感じがする。言ってみれば、因果応報を感じさせる最期である。


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 でもその最後を演出しようとしたオズの意思というのは、ヴァレリア解放戦線のリーダーであること、過激派であり市民殺害も目的のためならやむを得ないとしてきたこと、そうした過激派のリーダーとして矜持を持った死を迎えさせるということを一切拒絶している。
 セリエは女であり、暗黒騎士団の性欲を満足させるため、そのための効果を最大限に引き出すための「配置」をここで行っていると考えられるのである。セリエの場合はそこまでやってこそ因果応報、その具体性が引き出せるようにも思えたりもするが。




 こうしてバルマムッサの虐殺における配置からニバスの配置にかけて見受けられるものはギルダス、セリエらを通しても見受けることができるように思われる。ギルダスはそうした流れに対抗して、最期に自らの尊厳を取り戻す。ニバスにはそれがわからない。そうした次元、ニバスに冒されない次元でのデニムたちとの心のやり取りを実現させる。ただ配置され、為す術なくただ黙って死ぬだけ。ただ利用されるだけではないというものをギルダスは示してみせる。

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 これを確かに死ぬ前にそうしたものを示した、人としての尊厳を示した、一矢報いたと見るか。
 確かに尊厳は示したかも知れないし、一矢報いたかもしれないが、しかし死んだと見るかで大きく違ってくる内容ではある。ただ、こうしたことがあったことは間違いない。そこから、しかしこれに果たして意味があるのか、あるとすればどのような意味があったのかと考えていきたいところだが、残念ながらそうした最終的な答えめいたものをここから導くことは難しい。





 こうした流れの先にデボルドが配置されるのではないだろうかと考える。ニバスによって無理やり生き返らされたデボルド、記憶と魂の再生に失敗したニバスの言葉でいうところの「失敗作」であるだろうこのデボルドだが、エンディングにおいて少しずつ自分の意思で言葉を操り話そうとする様子を見て取ることができる。


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 つまり、ニバスの「失敗作」でしかないデボルドだったが、こうしてニバスの期待を大きく裏切っていく。そして記憶と魂の再生を成功させていくのだが、ニバスはそれを知ることがない。ここでもニバスは一番知りたかったことをとうとう知ることはないのである。その意味ではギルダスの場合と同じものが示されているといえる。
 また、ギルダスの死の場合は抵抗することに果たしてどれだけの意味があったのかと懐疑的になる場面でもあった。尊厳を取り返し、それを示すことに成功したとしても、肝心のギルダスは死んでしまうのだから。
 ところがデボルドは生きる。ただ配置され、効果を期待されるだけの「失敗作」が生きていくことで、ギルダスの時には見出せなかったものを示す。それは何かといえば、生きることに伴う変化ではないか。デボルドは失敗作かも知れない、だとしても生きていくことで人は変化する。あるいはそれは成長と呼べるかも知れない。そうしたものを示すという事が人にとって希望足り得るということがこのデボルドの生き様によって示されているのではないか。
 そしてこれがバルマムッサからニバスまで、そしてギルダスからデボルドまでを通して導き出される結論の一つではないかと思うのである。

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 Nルートではなぜかギルダスが死ぬんだけど、それはこうしてデボルドと対にして考えてほしいというある種メッセージ的なものじゃないのか? ということを思いついて書いてみました。







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