N(ニバス)ルートについて膨らましてみる





 ここではタクティクスオウガから少し離れて考えてみようかなと。



 前回、ニバスルートではデニムも人々の生き方の「無化」を行っていると書いた。人々がその理想、思想、生き方とは全く別に配置されること、そしてそうしたもの一切が剥奪されること。ただ優秀な兵士として戦うこと。そうした流れに逆らったのがギルダスであると。ギルダスは死ぬ間際に記憶を取り戻し、デニムの安否を確認し、無事を喜びながら死んだ。ニバスにもわからない次元で、ギルダスは自らの生き方を、尊厳を取り戻したのだと。


 しかしこうした無化、剥奪、配置というのはそこまで我々と無縁なものなんだろうか。それをここで考えてみたい。
 ・例えば黒人は奴隷船に詰め込まれ、本人らの意思とは無関係にアフリカからアメリカに連れて来られた。それまでの生き方、文脈とは無関係なところで生きることを余儀なくされた。必要なのは労働力であり、優秀な労働力なら高い値で取引されたわけだ。それがあまりにも多くなれば「黒人はアフリカへ戻せ」運動が起きたりもした。都合によって連れて来られ、都合が悪くなるとアフリカへ戻せというわけである。日本だって、戦国時代には大友家などが硝石と引き換えに領民を外国に売っていた。伊達政宗の派遣した慶長遣欧使節が、海外に売られた日本人奴隷を見かけ、その風体があまりに哀れであると書いた文献をどこかで見かけたことがある。メキシコでも「自分たちは犯された女の子孫だ」という思想が人々の自意識を広く毀損している節がある。
 そうしてみると、奴隷によって人々が持っていたそれまでの生き方が破壊され、または剥奪された影響というのは今でも広く世界的に見ることができるように思われる。少なくとも、調べればいくらでもでてくる。それが本物であろうと偽物であろうとである。


 ・別にここでガチャゲーを糞味噌に言おうとは思っていないが、ガチャゲーも似たような節があると思う。FEHでエルトシャンというキャラが出てきて騒がれたことが以前にあった(あ、ガチャゲーわたしはやってませんよ)。ご存じない方には恐縮だが、もともと「聖戦の系譜」で非常に強かったにも関わらずダメな王様に忠義を尽くして処刑されるという、そりゃ忠義は尽くしたかもしれんが少しアホに見えないこともない人物として描かれた人物だった。どうして実力あり、忠義も尽くす人物がこうした末路を辿るのか。どうして王は裏切り、裏切り者としての汚名を蒙ったとしても、友のために生きるという選択ができなかったのか。そういう人物である(詳しくはググってください(笑))。
 強さというのは、その人の生き方や思想と無縁ではないところがある。それが例えここまで愚かなのかというような生き様を生きたとしてもである。その強さだけをピックアップして、戦わせるというのはこれはニバスそのものではないのかと。思想や生き様からそれだけを切り離して強さを誇るというのは、まさに無化だといってもいいのではないかと思うわけである。(いや別に任天堂を批判したいわけではないけども(笑))


 ニバスはそりゃ悪人で悪いことしてる感がありありと出ているのだが、なんかそれを責められないほど同じようなこと、強さだけを取り出して生き方や思想と無関係に配置するようなことを、人ってけっこうやってるよなあと思ったという話です。もしかして人はそういうの大好きなのかも知れない。ローマでコロシアムとか作ってるし。剥奪し、無化し、否応なく配置するのが人間の隠された趣味みたいなとこあるのかも知れませんね。







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