バルマムッサで虐殺に反対したデニムは、紆余曲折を経た後、バクラムの古都ライム侵攻とレオナールの説得から解放軍に戻ることを決意する。「本当の敵はバクラムなんだ……」というデニムは、自分にとっての真の敵の存在を改めて感じるのである。
しかし、それはあくまでデニム個人にとってのものでしかなく、その他の人間にとってはそうであるとは限らない。例えばアロセールなどはバルマムッサの真相を知り、ロンウェー公爵やレオナールと対決する意志を決めている。そうしてアロセールは解放軍はもちろんデニムの騎士団からも抜けることを決意する。
ではシスティーナらはどうなのか。システィーナらはセリエの戦争を引き起こしてでも思った通りに物事を進めようとする姿勢に反発し、ヴァレリア解放戦線を抜けてデニムの軍団に移ったわけである。デニムは反虐殺、反バルマムッサだし、目的のためなら手段を選ばないというそうしたやり方に反発していることにシスティーナらは共鳴していた。だからデニムの騎士団に移ったのに、そのデニムはなんとウォルスタ解放軍に戻るという。そのデニムのやり方に別に反対もせず、システィーナらは一応くっついてくる。しかしそれが意味するのは一体何なのかといえば、システィーナらの思想や理想、生き方そのものの無化であるということができるだろう。「作りたいのは血塗れの国じゃない」「平等な世界と真の平和」を目指していたシスティーナらは、なんと直接的ではないとはいえロンウェー公爵の指揮下に入ることになるのである。最も憎むべき敵である存在の下で働くことになるとは、なんという皮肉だろうか。
この後、デニムはハボリムに出会うことになる。しかしデニムの「真の敵」に対する認識はかなり脆弱であり、敵はバクラムとロスローリアンという選択肢か、もしくは「わかりません」という選択肢しかない。一応「力を利用する者」の存在を指摘しているとはいえ、例えばLルートやCルートに進んだときのように歯切れよく「敵」の概念を説明していたデニムに比べてとてつもなく大きな差である。そのくらい虐殺に反対していながら、解放軍に戻ることを選んだデニムの「真の敵」に対する概念は出来上がってはいない。そもそも、解放軍に戻ってロンウェー公爵の指揮下で言われた命令をこなす生き方をしている、そうした生き方を選んだデニムにとってそうした概念を醸成させていくことがそこまで必要だとは思われない。そもそも、そうした概念がしっかりと出来上がっていたとしたら真っ先にロンウェー公爵のやってきたことが思い出されて「憎むべき敵としてのロンウェー公爵」に行き当たるはずである。その意味では、ハボリムの問いというのはある意味「お前は一体何を考えているの」、そして「そこまで行き当たらないとはお前はアホか」という痛烈な皮肉でもあるように思われる。考えて行き当たる行き当たらないは仕方ないというのは勿論だが、何といってもデニムは虐殺の目撃者の一人でもあるわけだから。
こうして、Nルートのデニムは敵がよくわかってはいない。Cルートの場合、ガルガスタンの人々の前で「」と言ってはいるが、もしこれが本当ならばNルートでも当然考えついていても不思議ではないはずなので、どうもこれはけっこう後付けの理由なのではないかと思われる。
Nルートで、ギルダスは死ぬ。なぜLルートやCルートで死んでいないか、生きているのかは定かではない(……というよりいくら考えてもわかりませんでした笑 筆者談)。
こうした事情が一体なぜなのかということを導き出すのは至難であるが、しかしギルダスがNルートで選ばれた存在であることは説明可能である。結論から言えば、先の事情で言うところの「理想や思想、生き方の無化」という流れに反抗する者としてギルダスは選ばれているということができるのである。
システィーナらは、理想や思想、生き方の無化をさせられることになる。虐殺などの目的のためなら手段を選ばないやり方に反対していながら、よりによってその虐殺をした組織に属しているという皮肉。これがデニムにくっついてきたことによる「無化」だといえる。もはや思想も理想も生き方も意味がない。ここで必要なのは、求められているのは命令に従うことだけであるのだから。命令に従って働くこと以外の意味が
剥奪されているといってもいいだろう。
ニバスは人々を自分の目的のために実験台にし続ける。ギルダスもそうしてアンデッドとなり、生き返らされた。ギルダスの理想も思想も生き方も一切ここではどうでもいいことである。つまりはそうした一切が剥奪されている。そうしたもの一切に関係なくギルダスは配置される。配置され、戦うだけの存在。それがかつての仲間と戦うことであったとしても。
ギルダスは強い。優秀な兵士である。しかしそれもギルダス自身の生き様と無縁であるはずがないのである。ここでギルダスはその強さだけを必要な要素として抜き出され、それをかつての仲間に向けることとなる。本人の意思や今までの生き方とは一切関係がないのである。
そうした無化の流れがある。ニバスはニバスでこうした無化を行っていく人間であるが、それに負けず劣らずデニムもそうした無化をしている存在だといえる。つまりこのNルートでは、デニムはニバスのことを果たしてそこまで悪く言えるような存在だろうか。デニムはニバスと違うと、ニバスと違って高尚な存在だと言えるだろうかということが問われているのである。いや、それを問題にしないで「ニバスは悪だ」と言っているデニムというその存在を皮肉る意味合いも含まれていると言える。そりゃデニムは別にアンデッドを作り出してはいない。しかしシスティーナらの生き方を裏切り無化している。そのことの意味を問わずにはいられないルートであるということができる。
ギルダスは最期にデニムのことを思い出す。デニムが無事であることを確認し、その無事を喜びながら死んでいく。たったそれだけのことが、重要な意味を持っている。ギルダスは死ぬ寸前でニバスによって剥奪されたギルダス自身の生き方を取り戻すことに成功したのである。ニバスが望んで止まないその結果、その結果がいざ発現しても、ニバスにはそれがわからない。そうした次元でギルダスが自分自身の生き方を取り戻し、デニムだけがその意味を知ることができたということはニバスに対する最大の抵抗だと言えるのである。奪われてはならない人の尊厳だといってもいいものかもしれない。
なぜNルートでギルダスが死ぬのか。その意味はわからないが、少なくともギルダスはその意味が次々と剥奪されるこのNルートの中でデニムの無事を喜びながら死んでいく、それによってこの流れに抵抗で来た唯一の人間だと言ってもいいのである。
このことはNルートのレオナールへの指摘にも繋がるだろうが、それはまた別に書くことにする。
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