理想と現実との対立については少なくとも1章では大きく分けて七つが明らかにされているといえる。
①ウォルスタだけで独立という理想⇔ゼノビアの後ろ盾で、今後影響を及ぼされかねないがそれも致し方ないという現実
②ニバスを追って一矢報いたい、敵の数も勢いのあるうちに減らしておきたいという理想⇔しかしアルモリカ城を攻撃されては元も子もないという現実
③ウォルスタだけで戦いたい理想⇔背後から襲われないために暗黒騎士団と非干渉しておきたい現実
④真の平和⇔ウォルスタの生存がまずは第一優先である現実
➄共存できる世界という理想⇔対立せざるを得ない現実
⑥若者が戦争に行かなくていい理想の世界⇔「死んではならない」と言って送りだすしかない現実
⑦平和な世界、人道を言える世界⇔虐殺によって少しでも有利になろう、生存を図ろうとするしかない現実
こうして、理想はそりゃわかるが、現実を考慮すれば低きに留まらざるを得ない。どうしても低きに留まってしまわざるを得ないわけだが、理想を、より高みを目指して少しでも上を目指したい。そうして結局妥当な範囲に収まってしまうという葛藤は常にある。上を目指すには力が足りない。かといって低きに流れ過ぎては、もう上を目指すこともできない。そうして交流曲線のように浮沈を繰り返し、繰り返しては妥当な立ち位置に収まることになる。
こうした葛藤の先にバルマムッサの虐殺を見出すとするならば、やはりヴァレリア解放戦線のパレード襲撃は先駆的な立ち位置を占めていたことが見出されると言えるだろう。
暗黒騎士団を襲撃すれば、バクラム国はどうしても弱体化せざるを得なくなる。暗黒騎士団にヴァレリア島からの撤退を余儀なくさせられたなら、ヴァレリア解放戦線がバクラム国を倒して新しく国を建国することも可能なはずである。そうした理想はわかる、そのために手段を選ばないのもわかる。ところが蓋を開けてみれば、被害があったのは市民だけ。暗黒騎士団には一切の被害が見られないという事態になっている。つまり、理想はわからんでもないがあまりにも無力が過ぎて、できることいえば市民殺傷も辞さないという態度しか見受けられない。あまりに無力が過ぎてこうして低きに、現実の方に堕すことしかできないのである。ヴァレリア解放戦線は。理想をあまりにも高く見過ぎるがゆえに、逆に現実は圧倒的な低きに収まるという皮肉がある。
そうしてみると、この物語的には「第二次パレード襲撃」的立ち位置としてバルマムッサの虐殺が位置付けられるとみて間違いない。
ウォルスタの存亡がかかっている。このままでは亡ぶだけかもしれない。
同胞を5000人殺害して相手に罪をなすりつけ、それによって存亡の危機の回避だけではない、有利な立ち位置に回ることができるのか。目的のためなら手段を選ばないその姿勢は、ヴァレリア解放戦線をはるかに上回る大胆不敵なものであり、その残虐性のゆえに民族的な違いなものとして説明がつく。ヴァレリア解放戦線は5人しか死亡させておらず、それによって悪名を被った、しかし5000人殺害して敵のせいにすれば、それがうまくいけば悪名がつくどころか美名、戦争の大義名分すら獲得することが可能になるのである。誰もがまさかウォルスタの自作自演だとは思いもすまいというのも見越してある。まさに盲点である。
Cルートでは真実をガルガスタン内に広める役の者がいないため、ロンウェーの思惑はまさに的中したと言っていい。全ての罪はガルガスタンが背負うこととなり、正義の御旗をウォルスタ解放軍が手にすることになる。ヴァレリア解放戦線は力がなかったために悪名をおったが、5000人も殺害できる力さえあれば正義を手にすることもできる。
これをロンウェーがパレード襲撃から学んだかは定かではないが、どこかしらで学んでそれを活かそうとした、そういう思惑はあったに違いない。
パレード襲撃を踏まえて、その過ちを繰り返さぬどころか輪をかけて残虐なことをしようとするわけである。あんな残虐なことは繰り返してはならぬという漠然とした思い、反省、理想がある。しかしこれによって存亡の危機の回避どころか有利な立ち位置に立てるとすれば?現実的なうまみがあまりにも強い。そうした要素を考慮しつつ、虐殺に参加するか反対すかを選択することになるわけである。
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