大量の本がある……。
以前に大分売っ払ったが、最近また少しずつ増えている。かさばらなくていいから電子書籍も読むが、問題は2倍めくらないといけないことで。あれにまだ慣れない。いや一向に慣れる気配がない。めくった割に進まないってのは、けっこう心に負担がくる気がする……笑
人生100年時代になった。電子書籍もあるし、本も読みやすくなった。たくさん手元にあれば、いつでも好きな時に読み返せる。なんて便利な時代なんだろう。
と、言いたいところなわけだが。
本を読みながら、あるいは読み終わって思うことは、果たして人生で後何回この本を読むことがあるだろうってことで。オレは金払って本を借りてるだけなんじゃないか?と思ったりもする。
そう思うから極力大切に読むし、いらんなってところは省いたりもするわけだが。メモってあの本にはこう書いてあったなと確認できるようにも極力してるし。
となると、その本離れできるのが理想的だよなと思う。別にその本見なくたって粗筋は頭に入っている。必要なところは覚えているし、忘れたらスマホのメモを見ればいい。
そうやって段々とその本自体から離れていく。いわば卒業していくわけだ。そしてもう見返さなくなれば理想的だと言えるだろう。もう見返す必要がないから。
それでも何度も見返すような本は、これはもう理想的ないい本、名作と出会えた証拠だろうし。
すると、大切なのは物の所有ではない。頭にはもう入ってるわけだから本は売っ払っても構わないわけだ。名作は並んでてもいいが、極力余計な本は卒業していくに限る。
そうしてみると、物の所有ってのは物の借用とあまり変わらない。今の時代はほとんど変わらないとも言えるんじゃないだろうか。別に本だけじゃなくても、車やケータイ、いろいろな物を購入していながら、事実上の借用とあまり差がなかったりするんじゃないだろうか。なんて。
金があることは人の持つ代替能力を肥大化させる。新品の本をたくさん買い込めたりもするだろう。そうして綺麗さっぱり並んでる本は見ていて気持ちがいい。それを否定するつもりはない。
しかし、あまりに所有にこだわりすぎると本質を見失いかねない恐れはある。特にこの時代は所有が手軽になった。手軽になった分だけ所有の意味が希薄化したり、重くなったり。そうした変化をも孕むようになっているような気がしてならない。
こだわるべき点は所有ではないのではないか、とふと思ってみた本棚の前のこと。
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