で、一日検査である。
脊椎?に50本くらい注射されて、マジで死ぬかと思ったわけである。
「あれ?」「難しい……」なんて声が聞こえてきて様子がどうもなんかおかしい。
「ガタイのいい人は痛み止めを深く入れないと効かない場合がある」ということで、なんかムダに損した気持ちになったりして……笑
ともかく腰周り、後ろ側の背骨周辺は蜂の巣になりましたとさ。30分で終わる予定が一時間半に伸びたらしい。
注射がまたメチャメチャイタいわけで。注射なんてあれだろ?大したことないやつだろガマンガマンなんてのとはもう全然次元が違う。勝手に手や足がビクビク動くし背中で恐いし半身不随とかなったらどうしようなんて思ったりするわけで。不安というやつが痛みにいい具合にスパイスみたいに効いていやがる。うどんに唐辛子乗っけたようなもんだろうな。
そんなんが一時間半とか続いてると、痛みをうまく逃がす方法、なんてのは長丁場の前ではかなり弱いもんだなと。それをやってると体力が続かない。普通にやってて痛みに耐えながら体力温存を図るような話になる。
痛み止めの効かない中、注射打たれながら時々走る鋭い痛みを前にしてなんかいろいろ考えていた。
なぜ人は生きるんだろう。治った先に明るい夢でも夢見たりしてるんだろうか。ああ、落ち目の次は右肩上がり、上り調子とか思ったりするんだろうか。暗ければ暗いだけ次は明るくなる。幸せの重みが増すとか。不幸ですらつまり幸せの始まりみたいな。
ふとそこで思ったのは、それってけっこう普通の話なんだなと。当たり前の話なんだろうなと。
交流曲線じゃないけど、人生ってそうした形で捉えられたりする。「乱極まれば治生じ、治極まれば乱生ずる」もそうで、人はそうした出来事を見ているうちに要するに人生ってそうしたことの繰り返しだよねと漠然と考えたりするわけだ。それは歴史的に見てもそうだし、多分人の考えてることもそうなんじゃないだろうか。
いいことが続けばいいし、不幸や悲しいことは幸せの前触れなんだと考えた方がいいに決まっている。それは信仰にどこか近い。信仰と経験と生産的な人生のミックスされたようなもので。
オレはなんかそうした注射→痛み→耐える→回復→注射……
の繰り返しを見ているうちに、意識が薄れているうちに気づいた。
「なぜ人は生きるのだろう。なぜ人は不幸の次は幸せがあると信じるのだろう」とオレは考えている。
期待する。幸せになる。それは不幸や苦しみを増すことにも繋がる。嬉しければ嬉しいだけ、喜びが増せば増すだけ人は打撃が大きくなる。
なのに「なぜ人は生きるのか、生きて幸せを求めるのか」、つまりそれを考えている時点でオレは人生を止めていた。いや、止まっている。オレは自分の人生を、曲線の連なりをどこかで止めている。
違う、まだまだ人はより良くならなければならないと言いながら、その一方で諦めている。まるで、その失われた信仰?を取り戻そうとでもするかのように足掻くことは、果たして足掻いているのかそれとも諦めや喪失の裏がえしなのか。
ともかく、価値観が全くひっくり返っていることを、注射を打たれながら発見したという話。
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