ふと思いついて急に書きたくなった。
ジュヌーンに出会うルートでは、デニムは必然的に虐殺に加担している。自分たちとウォルスタ民族の存亡をかけて人々の説得に赴き、ところが収容所でデニムは大反対に遭う。収容所の生活は最悪ではない、むしろ平和に暮らせるのだと人々は言う。
②その人々をデニムは率先して虐殺することを決意する。ここの人々を虐殺し、その罪をガルガスタンになすりつける。ここが滅ぼされたとあれば人々は武装蜂起に参加せざるを得なくなる。そうした汚い行いであっても、それによって自分たちが有利になるのであれば、少なくとも全滅の危機は避けられる。デニムはそうした公爵の弁(とレオナールの弁)に納得した。そうした、人道的に見たら汚い行いであっても、こうした状況ならば致し方ないというわけである。組織と組織の空気感は少なくともそれを肯定している。ここでは滅びたくない、滅ぼされたくないというリアルな事情が根底を成しているのが見て取れる。
③虐殺に加担したわけだが、自責の念は残り続ける。バルマムッサの人々の犠牲をムダにはしないことはデニムの心の中に残り続けるのである。かつて英雄と呼ばれた男はこうして公爵の犬と呼ばれることになる。じゃあ公爵の命令は絶対だったかといえばそうではない。公爵殺害に加担する立場、それを肯定する立場は「ウォルスタ民族のため」という大義によって支えられている。
だがリーダーとして不適となった公爵を殺害せねばウォルスタが危うい、滅びかねないという事情がある。ウォルスタの滅亡を阻止する意味合いでは、これもまた極めてリアルな事情だと言えるだろう。
④こうしてリアルな事情のためにその狭間でいろいろと犠牲が出ているわけだ。バルマムッサの時にはウォルスタの人々が犠牲となり、公爵を殺害したときにはレオナールが反乱の首謀者という名目で殺害された。レオナールはそうした収まるために必要な犠牲というものがあり、それに誰かが収まらなくてはならないとすれば自分がなっても仕方がないという諦めと一種の悟りめいたものがあったようである。
では隣のガルガスタンではどうかといえば事情は同じである。ジュヌーンという男が登場する。「かつて民族浄化政策に関わったが、その過ちを認め、その罪を償おうとしている」という話だが、事情は少し複雑である。体制からは裏切り者扱いされており、竜使いの村を滅ぼしたい思惑の体制から偽情報を流され、それに従って一つの村を虐殺した過去を持つ。
「裏切り者」
「何の罪もない人々を虐殺した犬畜生にも劣る男」
「どちらにせよ、剣を血で染めたのはおまえだ」
ジュヌーンはグアチャロから散々に言われる。
➄虐殺に関与したこと、裏切り者と言われること、犬畜生にも劣るという言葉、どんな事情があったにせよ虐殺したという事実など、この時のジュヌーンとデニムとは非常に共通点が多い。さらには己の過ちを認識し、罪を償おうとしていることなどはまさにこの時のデニムとかぶっていると言っても過言ではない。かぶっていないのは民族くらいのものである。
⑥「彼女は私を許してくれたが、私の罪が消えるわけではない・・・・・・」ジュヌーンは言う。エンディングでストーリーは終わる。しかしジュヌーンの戦いは終わらない。民のために残党と戦うこと。
滅ぼしてしまった村へ行き、花でも供えたいということ。それはつまり罪との戦い、罪の意識との戦いでもあると言える。
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