戦国策5 王孫賈が母に叱責され開眼する話(倚門の望、母の情の話) 改





 王孫賈(おうそんか)は15歳で王に仕えていたが、王がどこかへ出て行ってしまい、どこにいるか全くわからなくなってしまった。
 母が言った。


「わたしはおまえが朝出かけて夕暮れに帰って来るまで、家の門から遠くを見て待っていた。
 おまえが夕暮れに帰ってこないと、村の外れの門に寄り掛かって遠くを見てずっと待っていたもんだよ。
 それが今、おまえは王にお仕えする身でありながら、王がどこにいるかわからないまま。
 それでよく帰ってこられたものだね」


 王孫賈は町に入って行き、言った。
「淖歯(とうし)が斉で乱を起こし、王を殺した。わたしと共に淖歯を誅せんと思うものは右肩を脱げ」
 こうして集まった400人と共に、王孫賈は淖歯を殺した。




 ・短い話ですね。
 なんか流れが奇妙ですが。
 王孫賈は王が見えなくなったので、さっさと家に帰ったのでしょうね(笑)
 王孫賈はどこで王が殺されたのを知ったのかは書いてありません。
 まあ細かいことは置いといて、あるいはいちいち言葉にして語るまでもないというスタンスでしょうか。
 行間は、つまり言わなくても王孫賈の言葉を見ていればわかるでしょうと。
 あるいは本題と関係ないので、どうでもいいのではしょった可能性もあるかなと……(笑)




 ・ここで言いたい事はつまり、忠を尽くすならばそれは「親が子を思うような気持ちで」尽くすべきだということでしょう。

 孝……親が子を思っているような気持ちを考え、それに対応するように子も親に尽くすべきであると。
 忠……主君は配下を当然のように案じているものだと思う、配下としてはそれに応えるような気持ちで主君につくせ、と。

 この二つの仕組みは同じであると。
 「孝」と同じようにお前も「忠」を尽くせと母は言いたいということがわかります。



 で、これを聞いて怒られて、王孫賈は発奮する。
 確かにその通りだ。
 そのレベルでオレも主君に忠義を尽くさなくては、と思うんでしょうね。



 で、王が殺されたのを知る……
 そうなると早速、命がけで仇を討とうとするわけですね。
 母の熱量が子にも伝わったと見える。
 そうして率先して人々に呼びかけて、率先して首謀者を殺しにいく。
 そういう話なんでしょう。



 ・淖歯という人が王を殺害するわけですが。
 殺害前にはこう言ったのだと。
 「天が血の雨を降らせるのは天の警告であり、地が裂けるのは地の警告であり、宮門で人の泣き声がするのは人の警告です。
 天地人がいずれも警告しているのに、王は自戒することがない。
 これでどうして誅殺せずにおられましょうか」



 これはよそからコピペしてきた文章なんですけれどもね。
 淖歯はこう言って王を殺したんだそうです。
 この王ってのは案外悪者で、あちこちから恨まれていたようです。
 特に、燕の昭王からはその父を殺したということで非常に恨まれていた。だから昭王は各国と結んで斉を孤立させていた、でその上で楽毅という将軍に斉を攻めさせたと。どこからも救援がない、そんな孤立無援に陥ったのは斉のこの王の悪逆非道から起こったことだと淖歯はどうも言いたかったようです。



 ・で、そうした情勢を踏まえると王孫賈はじゃあその悪逆非道の王のために、本当に忠義を尽くすべきなの?という疑問が浮かんではくるわけですが。
 多分そこまで読むと話が逸れてしまうのではないかと。
 この母も王孫賈も恐らくそこまで踏まえているわけではない。
 ただ、忠義のありようとは何かを考えたら純粋に自分が仕えているわけだから、すべきことはきっちりするべきではないかと。
 雇われている以上、忠を尽くさなければならない。
 「孝」と同じように、「忠」も考えられなくてはならないんだと。
 主君が人の行いをしているかいないかはここでは論外だと言えるでしょう。



 ・ただ、「戦国策」として見るならば、子にここまでの決意をさせたその母親の語り口のその「効果」の方に重点を置いてみるべきではないかと。読む人の情に訴えるような話でない。むしろ、いかに話しかけたら人はそこまで揺り動かされるものなのか、どのような語り口が「効果的」であるのか。そこに重点を置いてみるべきものなのかなと思えますね。

 「わたしはお前を心配で遠くを見ていたものだよ、それをお前は!」そういう語り口で叱る母親がいる。
 「孝」と「忠」とを同じ形で簡潔に説明している母親。
 なんという説得力、なんとわかりやすく、そして筋の通った話だろうかと。
 親が子を子が親を思う。
 それと同じで主君は配下のことを思い、配下は主君のことを思うべきなんだと。
 多分ここまでわかりやすく言ったものは、他にはあまりなかったんじゃないですかね。
 そして王孫賈は発奮して、その結果淖歯を殺害する機運を作るまでに至ったのだと。


 この「どこいったかわかりません」といってうちにぶらぶらと帰ってきた頼りない息子が、いきなり忠義の士となって仇敵に率先して戦いを挑むという、この変わりよう……
 時と場合と、そしてどのような語られ方をするかで人はこうも変わってしまうものか、力を引き出せるものかという例としてこの例は引き合いに出されているのではないかと思いますね。




 ・この時の斉王は湣王(びんおう)ですね

 燕の昭王に恨みを買っており、楽毅によって滅亡寸前まで追い詰められた王として有名です。




 こちら成語ですね。
 この話と関係のある成語をまとめてみました。

 ・「倚門の望」(いもんのぼう)……母が子の帰りを待つその心の切なさ。倚門とは門に寄り掛かること。その状態で子の帰りを待ち続ける様子を表すのだと。
 ・「左袒する」(さたんする)……人に協力すること、加勢すること。



 でもこの話では「右袒する」わけだから。
 服の、右肩にかかっているところを脱ぐというわけです。
 あれ?話が違うんじゃないかと思われた方はその通りですね。
 確かにこの話では「左袒する」は成語となっていませんが、そこのところちょっと興味深いのでいろいろと調べてみました。

 これはしっかりと考察をしていきたいなと思います。



 ・「左袒する」の故事について



 後の漢の時代に、周勃(しゅうぼつ)という将軍がいました。
 呂后の専横が続いた後、呂后が死に、呂氏一族が反乱を起こそうとしていましたが。そこで周勃は軍に向かって言ったわけです。
「呂氏を助けんと思うものは右袒せよ、劉氏を助けんと思うものは左袒せよ」そうすると軍中皆左袒し、それによって呂氏を殲滅したと。
 ここから「左袒する」の故事が生まれたんだそうです(他にも諸説あるようですが)。
 意味としては、つまり加勢するという意味になるのだと。
 協力する、一肌脱ぐ、力を貸す。
 そう言った感じですね。



 20200516追記
 ・こちらのサイトでは左袒と右袒について調べてあります。

 儀礼としての左袒と、刑罰を受けるときの右袒があったのではないかということが言及されています。




 微子啓(びしけい)という人は、殷が滅ぶときに諸肌を脱いで周にやってきたのだそうです。
 つまり上半身裸になってということですね。



 諸肌脱ぎといえば、廉頗(れんぱ)と藺相如(りん しょうじょ)が思い浮かびます。
 藺相如を侮っていた廉頗が、藺相如の思いを知って謝罪に来る場面ですね。

 上半身裸になり、ムチで好きなように殴ってくだされという場面ですね。

 つまり、謝罪の場合諸肌脱ぎであり、上半身が裸になることが謝意を示すという習慣が古くからあったようなんです。
 具体的には、殷王朝の頃から(BC17C~BC11C)こういう習慣があり、BC245あたりにまだ廉頗は将軍として趙にいたようなんで、ここらへんあたりまでは謝罪をするのにこうした様式があったということが考えられます。
 この謝罪の時に服を脱ぐことを称して「肉袒(にくたん)」ともいうようです。謝罪のため右肩を露わにすることも同様に「肉袒」というのだと。
 つまり、上半身裸の肉袒が右肩を出す意味での肉袒へと繋がっていった経緯はあるように思います。



 ・斉の湣王が死んだのはBC284くらいということなので、廉頗が登場するよりも前ですね。
 この時に王孫賈は「右袒」を呼びかけるわけですが、この時には謝罪とかの意味はなく、ただ賛同者を募る程度の意味合いで用いているといえるでしょう。手っ取り早く手軽で分かりやすいので使ったのでしょう。



 この100年後のBC180に周勃が「左袒もしくは右袒せよ」というのを言っているわけですが。
 これも決して深い意味があるというのではなく、明確な意思表示をしろという意味合いくらいのものであると言えるのではないかと思います。その意味では、左か右かの違いはあるにせよ、王孫賈の「右袒」とそこまで明確な違いがあるとはいえないでしょう。片方脱ぐ、それが何らかの意思表示であるという程度のものだと思っていいのではないでしょうか。



 それが「右袒」であれば呂氏の味方であり、「左袒」であれば劉氏の流れである。
 あるいは「右袒」であれば正統派(あるいは逆賊)、「左袒」であれば逆賊(あるいは正統派)。
 さらには「左袒する」で加勢する、協力することを表すといった意味合いが加わっていくのはそれをきっかけとしてはいるのでしょうけど、後年になるにつれて加わった感じが強いですね。



 ・一応こちらのサイトなんですが、左袒について。

 「左肩をはだけるのは悲しみの姿態である。
 一方,中国では左肩を脱ぐことを袒(たん)または左袒といい,吉事にも凶事にも行った」
 とあります。
 一応こうした形で手軽にできて謝罪や悲しみの意を表せる表現として一般的に定着していたものがあるんだなと。
 そういうのもあったんだな、ということですね。



 ・さらについでですが、三国時代に徐庶(じょしょ)という人がいました。


 この人の母は賢母として有名で、徐庶が劉備に仕えていると聞いて誇らしげに思っていたのですが、徐庶はあっさりと曹操の策略に乗って曹操に降伏してきます。
 そして徐庶を叱ります。
 「せっかく素晴らしい御人に仕えていると思っていたのに、つまらん策略にのって逆賊(曹操)に仕えるとは何事か」
 ここで徐庶を叱り、そのまま自害して果てます。
 ここで徐庶の母が言いたいことは、孝と忠とは全く違うということですね。
 例え「孝」でなかったとしても、仕えるべき人に仕えることが大切だと。
 間違っても逆賊に仕えてはならんと言おうとしています。



 つまり、王孫賈の母のいた時代から400~500年くらい経っているのでしょうが、その間に「忠」の概念は大きく様変わりしている面があると言えるのではないかということです。
 王孫賈の頃は逆賊だろうと人の道に反していようと、主君だと思ったら仕える。
 そして仕えている以上は忠義を尽くすものだと。
 一方の三国時代、徐庶の母は仕えるべき人をしっかりと選び、その人に忠誠を尽くすことが必要だと言うわけです。



 まあはっきりとしたことはわかりませんが。
 そもそもそれだって時代性ではなく、個々人の考え方の違いでしかないかもしれません。
 ただ、王孫賈の母と徐庶の母とにみえる違いを一応考察してみるってのも意外と面白いなと思いますね。







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